来 歴


遠藤周作
谷田昌平の親友。昭和29年から本格的な交友が始まるが、第三の新人たちの「構想の会」に昌平が加えてもらってからとりわけ親しく親交した。カトリック信者であり、大変ないたずら好きでも知られ、「ほらふき遠藤」の異名もとった。クレムリンでフルシチョフの招待を受けた際、警備の目をかいくぐってフォークやナイフや灰皿をくすねた話は有名である。しょっちゅうニセ電話を文壇仲間にかけたり、奇矯なふるまいをして皆を驚かせていた。谷田昌平は、氏のことを「サービス精神でユーモラスに親愛感を示す人、敬虔になると照れくさくて、持ち前のいたずら心が動き出す、含羞の人である。」と評した。
昭和38年に(近所の)玉川学園(狐狸庵)に住居を移すよう進めたのは谷田昌平であった。周作は結核を患っており、昭和35年から36年にかけて3回も手術をしている。「当時まだ自然が豊かに残っていた玉川学園を大いに気に入り、英気を養い、長年の宿痾であった結核から解放されました」と、遠藤順子氏が「周作クラブ会報第29号」の谷田昌平追悼文に書いている。また、「沈黙」の名付け親になったのも谷田さんであったと夫人は述べている。周作は「宇宙棋院」という名の素人囲碁サークルを立ち上げるが、二代目会長は谷田昌平であった。白石省吾氏が寄稿した「第26号周作クラブ会報」によると、遠藤周作に対して「遠藤君」と呼べるのは宇宙棋院の中でも昌平だけであったという。谷田昌平著の筑摩書房「回想 戦後の文学」のしおりに遠藤周作が次のように寄稿している。「自分の作家活動の大きな作品はみな谷田氏のおかげで発表されているわけだ」と。


谷田昌平、遠藤周作、吉行淳之介、
三浦朱門ら。
構想の会のメンバーである。
(遠藤周作壮行会195911.10武蔵野にて)
(同上)
(同上)


  戻 る