来 歴


中野十中


  昭和29年、中野十中の最初の入学式は、堀越高校で行われました。この年の四月に落成するはずの校舎の建築が遅れて、一学期は堀越高校の教室をお借りしての授業でした。-中略- 何もかも自分たちの手で成し遂げるという、生徒の心意気のようなものが肝に銘じていましたから、校歌の作詞をするようにと初代校長の羽山正二先生に命じられたとき、喜んでお引き受けしました。音楽の担当が芸大の作曲科を出たばかりの中村茂隆先生で、文部省主催の芸術祭にたびたび入選なさるなど、新進の作曲家として注目を浴びていらっしゃいました。曲をつけにくかったに違いない私の詩を、中野十中の校歌にして下さったのは、ひとえに中村先生のお力によるもので、深く感謝して居ります。昭和29年に、私は「荒地」という詩のグループに参加し、新しい現代詩を書こうと思っていました。個人的な感想ではなく、時代やその中に生きる人々といった大きな詩的世界を志していたわけです。五七調などの定型に捉われず、昔からの校歌の形式を踏まず、何よりも十中のなかではつらつと動いている若者を、未来にわたって生き続ける人間の原型を描こうとして生まれたのが中野十中の校歌でした。
(平成3年12月15日中野区立第十中学校PTA広報委員会 薫風より抜粋)

以下は牟礼慶子の遺品で、中野十中と
書かれた封筒に入れてあった写真です。
年代、場所等は不明です。
右前 牟礼慶子
(同僚の先生方 右牟礼慶子)
職員室にて
右から二番目 牟礼慶子
右前 牟礼慶子



平成19年11月3日十中文化発表会の写真
前列中央牟礼慶子 右隣(白の上着)中村茂隆先生

 当時の十中の在校生は100名に満たない状態でしたが、校長が300人校歌大合唱を呼びかけ、
在校生以外に卒業生、保護者などが参加して校歌合唱した時の写真です。当日は400人以上集まり、
開校当時十中に勤務された先生が作詞作曲をし、当日会場に出席していただいていることを紹介の後、
声を合わせて合唱しました。(中野十中同窓会事務局談)


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