来 歴

茨木のり子

茨木のり子 大正15年大阪生まれ。東邦大学薬学部卒。当時国家試験はなく、卒業と同時に資格を得ることが出来た。本人曰く、「かなりの劣等生であり、空襲で逃げ惑うばかりの学生生活であったため、自らを恥、以降薬剤師の資格は使用せず。」昭和24年、医師三浦安信と結婚。所沢に住む。その後、新宿、池袋と移り住み、終の棲家は東伏見であった。昭和50年夫安信死去。平成3年「韓国現代詩集」で読売文学賞受賞。平成18年2月17日、くも膜下出血のため死去。享年79歳。主な詩集に、対話、みえない配達夫、鎮魂歌等がある。牟礼慶子はそれほど社交的ではなかったが、茨木のり子とは深い絆で結ばれていたようである。谷田夫妻は、湯河原の老人ホームに引っ越す際、殆どの蔵書を処分してしまったが、茨木のり子の詩集は手放していなかった。よほど大切にしていたと見える。

  

昭和62年9月17日蓼科にて。左牟礼慶子

大正15年誕生の茨木さんに妹はなく、昭和4年に生まれた私(注1)は姉を持たない。姉妹に似た絆で、堅く結ばれて生きてきたように思う。いただいた手紙と葉書は百通を超える。第一信の消印は28・9・14。中略 初めて所沢のお宅を訪ねたのが、昭和三十年八月。私どもが、実家と西武線野方の中間点にある、質屋の二階を借りて住んでいた頃、細かで正確な手書きの地図を添えて、ぜひお越しくださいとの葉書をいただいた。竹の木戸を押すと、藍染の細かい十字絣に錆朱の細帯という、着物姿の茨木さんが出迎えて下さった。 中略 やっと両家が自宅に電話を引き、声で伝えられるようになった、それでも折り折りの挨拶や、会合のうち合わせなどを手紙に記すことは、平成十三年まで続き、茨木さんの最終便には九月三十日の日付が記されている。中略 昭和50年五月二十三日(夫三浦安信氏の)告別式。 中略 半年を経ても哀しみは癒えず、「昨年の今頃、二人で熱燗をのんだり、鍋ものを作ったりの日々が思い出されてたまりません。」と、傷心の思いを書き送って来られた。 中略 鬱の日々から抜け出して、韓国語を学び始め、韓国に出かけられるようになり、韓国文字に日本語訳を付けた手紙を下さることもあった。スペインから絵葉書(注2)が届いたりして、生きる力をとりもどされたと安堵したことを思い出す。韓国語の勉強は「韓国現代詩選」に結実、読売文学賞につながった。中略 「山形の墓所は、遺骨を白い布袋に入れて納めるの」とも言われた。夫君と共に住んだ保谷の家からは離れ難かったに違いない。布袋なら寄り添って死後の時間を生きて行ける、そんな想いを抱き続けておいでだった。茨木さんへの送別の辞は、「お幸せに」だけ。 

現代詩手帖2006年4月茨木のり子追悼特集号より抜粋
注1牟礼慶子のこと  注2日本からの勘違いである

昭和35年6月 日向あき子宅にて 

牟礼慶子作 どこよりも詳しい?茨木のり子全詩事 1946年から1983年まで。全7ページ

来歴 茨木のり子全詩事