来 歴


比喩の向こう側


たとえばさるすべりが
まっかな花をつけている とある真昼
やっとやって来た恋人が
手も握らないうちに背を向けて
さっさと行ってしまったとしたら
そのたけの高いさるすべりが
つぼみもつけずひからびていた冬に
私ときたら何をしていたろうか
何ひとつ手を貸さなかったのが私の罪
私の赤い花ははたして何なのだろうか

たとえば私の心臓に今咲いているのは
行ってしまった恋人ではなくて
たとえば夏の終りとともに
またいち早くひからびてしまう
移り気なさるすべりの花だとしたら
私のほんとうの恋人は何なのだろうか

たとえば絹のブラウスの
白いボタンを上からはずしてゆくと
かすかに汗のにおいのする
白いふくよかな胸はおろか
中身までありありと見えるのだとしたら
たとえばその胸の中に
後生大事にいだいていたのが
とるにたらない私自身だとしたら
その見知らぬ背中に向かって
あくことなく語りかけていたのだとしたら

たとえば とある真昼
あお向いてさするべりの花を見ているのは
ほんとうの私ではなくて
どこかの町角をひどく厳粛な顔して
巨人のような私が歩いているのだとしたら
たとえば巨人の背丈がどれくらいだったか
どうしても思い出せないのは
私に私の高さが見えないせいだとしたら

しかし目にひりひりとしみるのは
現実の太陽とまっかなさるすべり
ほんとうの私はとうに溶けてしまって
すべての比喩の向こう側に
大きくてつかまえきれない世界だけが
深い崖になってなだれているのだとしたら

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