殿岡
昭和37年10月鉄道80周年 品川機関区にて
丹那トンネル一番列車の栄誉を担う(クリックすると画像が拡大されます)
第一号列車の機関手の選定が、鉄道省内で慎重に検討され、東京機関庫運転手指導員である三十六歳の殿岡豊寿(注1)がえらばれ、助手に中山貞雄が指名された。
殿岡は、東京鉄道局屈指の機関手で、それは、昭和6年以来お召列車を二十一回も運転していることでもあきらかだった。中略
お召列車は、原則として一秒の差もなく目的の駅に到着することが義務付けられていた。到着駅のホームには、陛下の下車口に朱色の細長い絨毯が敷かれて、少しの狂いもなく下車口をそこにとめるよう列車を停止させねばならず、殿岡は、それを確実に果たしていた。
お召列車の運転命令が言い渡されると、殿岡は、信号の位置をはじめ路線状態を十分に研究し、到着駅の列車停止位置を確認する。時には、到着ホームで軍楽隊の演奏があり、その終了と同時に停車させるようにという要請まであった。
列車の動揺を最小限にする必要があったが、かれは、一般の列車の運転でも、発着時に少しの揺れも起こさぬことで定評があった。いつ発車したか、停車したかわからぬほどで、それはかれの研究熱心と勘の鋭さによるものであった。
コップに水をみたし、それが一滴もこぼれるよう静かに列車を停止させる。連結器も音をたてずにつなげる神業に近いものを持ち合わせていた。
こうした技倆(注2)を買われて、かれは丹那トンネルの試運転に参加し、四十回以上も機関車を運転した。始めの頃は、トンネル内の地盤がやわらかく、かれは、それに適した速度で列車を走らせた。このような豊かな経験をもつかれは、第一列車の機関手として最も適していた。
吉村昭著 静岡新聞連載「闇を裂く道」より抜粋 注1旧漢字の壽ではなく寿となっている。 注2原文は人偏に両
工事完成後の昭和9年11月30日夜、東京駅を出た神戸行きの第一号列車が、新東海道線を走り、丹那トンネルを通過する場面(14章)は、作品のクライマックスで感動的である。私事にわたるが、この第一号列車の機関士は私(注3)の妻(注4)の父(注5)である。生前岳父は自分のことが書かれた報道記事(注6)の切抜きを大事に保存し、その思い出を機関士としての誇りをもって時に語った。その折耳にした話がそのままに作品に記されているのに私は驚嘆した。そして氏の記録文学における事実の正確さを強く実感させられた。
文春文庫「闇を裂く道」解説(谷田昌平)より抜粋 注3谷田昌平 注4谷田慶子 注5殿岡豊壽 注6上記東京日日新聞記事
町田にて、谷田夫妻の愛犬十郎と。昭和38年頃か
何気に達筆であった
昭和27年5月25日奥白根五色平
昭和27年5月24日 竜頭の滝
軍服姿も凛々しい
昭和33年10月
品川機関区
大谷
新小岩機関区にて。「岩」は新小岩機関区を表す。
千葉植樹祭の時のお召し機。C51239号は現在梅小路機関区で静態保存されている。
梅小路機関区で静態保存中のC51239 左は3シリンダーC5345
C5345は若かりし頃の殿岡豊壽の愛機であった。
総武線か?機関手は大谷克己。詳細は不明
大谷克己
新小岩時代のD511051号機。残念ながら保存されていないようだ。