来 歴

母照子とレオと慶子 野方にて 

牟礼慶子について 
※敬称略

幼少年期
谷田慶子 旧姓殿岡慶子 血液型A型 昭和4年2月1日東京府荏原郡荏原町大字中延1434番地に父殿岡豊壽、母照子の4人兄弟の長女として生まれる。父豊壽(とよじゅ)は、昭和9年12月1日の丹那トンネル開通1番列車の機関手に選ばれ、当時東鉄ナンバー1機関手と言われていた。母照子は歌人であり、和歌山牧水門下の大橋松平が一員であった短歌会に所属した。後に、夫となる谷田昌平(大正12年2月26日兵庫県神戸市生まれ)とは、照子が短歌会のメンバーから選んだとされる。
幼いころは天才少女と言われたらしいが、自分の中に閉じこもりがちなおとなしい性格で、家のなかでおはじきやあやとりをしたり、絵本をひろげたりするのが好きであったと述懐している。小学校に入学してからも友達の遊びの輪へ自分からはいって行くことができなかったし、夏休みになると兄の博志が専らの遊び相手であり、9月の新学期には日焼けしない白い顔のまま登校して、担任に不思議がられもしたそうである。昭和16年3月20日東京市立啓明小学校卒業。
昭和16年4月1日東京府立第12高等女学校入学。昭和20年3月20日東京都立北野高等女学校卒業(名称変更)。

大阪時代まで
昭和23年3月20日實践女子専門学校(現実践女子大学)卒業。牟礼とは、当時武蔵野のおもかげを色濃く残していた三鷹町の地名「牟礼町」に因むと言う。在学中は「流動の会」に所属。詩人井坂洋子の母である内野潤子とは同級生であったようだ。谷田昌平とは、昭和19年ころに婚約をしていたが、昌平が昭和21年に京都大学文学部に入学したため、離れての生活となった。
昭和23年4月に教員免許を取得、東京都杉並区立杉森中学校教諭となる。当時の月給は6号奉460円であった。昭和24年8月31日、杉森中学校を退職。そのころ結婚した昌平と共に(結婚の詳細年月は不明。戸籍上は昭和26年9月26日入籍となっているが、昭和24年9月発行の教員免状には既に「本籍地徳島県」となっており、戦後の混乱が伺える。)大阪市東住吉区田辺西之町4−22に転居する。昭和26年4月1日南河内郡藤井寺町立小学校教諭に補する。(補するとは聞きなれないが、要するに拝命されたと言うこと。)教員を務めるかたわら、「主婦」として夕刊新大阪に詩を発表する。初掲載は、昭和25年2月6日「特集 働く人の詩」において「幸せとは?」昭和26年11月、昌平が同人誌「青銅」を主催。青銅3号の「山羊」が「詩学」の詩壇時評にとりあげられ、「詩学」の新人特集号に「ポプラ」を発表する。それらの活動が鮎川信夫の目にとまり、「荒地」にも参加することになる。昭和28年9月14日、終生の友であった茨木のり子から初めて手紙が届く。昭和29年3月31日、藤井寺小学校を退職。

上京
昭和29年、昌平の仕事の都合で杉並区高円寺7−968いせ?荘に転居。4月16日に中野区立第十中学校に国語教師として赴任する。月給は13600円。当時新設校であり、4月完成に校舎が間に合わなかったため、堀越高校の教室を借りての授業となった。校歌も制定されていなかったため、初代校長の羽山正二に作詞を命じられる。作曲は中村茂隆。芸大の作曲科を出たばかりの新進気鋭の音楽家であった。現在までも校歌は歌い続けられている。そのころ、「荒地」主催の鮎川信夫が中野十中を訪問、高円寺のアパートで今まで書いた全作品を鮎川に手渡し、その返却であったと当人は記憶していた。同人誌グループ「荒地」に参加したのも、この年であると言えるだろう。30年5月7日、中野区野方町1−820田中質店へ転居。昭和32年9月(10月?)杉並区高円寺6−732恵愛荘に転居。

玉川学園時代
昭和33年4月15日、小河内ダムに技師として単身赴任していた父豊壽が中野区大和町2−389番地に帰る。戦前に大家から立ち退きを命じられたため、照子が借金をして買い取りったため、豊壽は自分が住む権利がないと思い、昭和33年8月、町田市本町田4335小田急住宅36号に転居すると同時に、谷田夫婦と同居を始める。昭和35年、町田市玉川学園1−12−22に土地を購入、住宅を建設。昭和38年、父豊壽が脳溢血のため死亡。昭和42年4月1日、新設された東京都北多摩郡狛江町立狛江第二中学校(昭和45年10月1日、市制施工により、東京都狛江市となり、狛江市立狛江第二中学校となる。)に転勤。中野十中に引き続き、校歌の作詞を担当した。月給は63500円。昭和23年から20年で実に100倍以上給与が上がっている。戦後の高度成長期は今思うとすさまじいものであった。同年、自宅の改築を行う。昭和50年3月31日、狛江二中を退職。同居していた義母小春から、「女なのに外に働きに出るなんてみっともない。旦那様の稼ぎが悪いと近所で噂されます。」との理由であった。小春は明治25年生まれであり、明治時代の女性の通常の感覚であったのかもしれない。「定年まで勤めていれば、退職金も年金も全然違ったのに」とは、管理者がしょっちゅう聞かされた愚痴であった。昭和61年7月19日(登記済証による)に北佐久郡軽井沢町大字追分字に別荘を新築。堀辰雄夫人の堀多恵氏の土地の一部を譲ってもらっての待望の別荘生活の幕開けであった。夫妻共に動物が大好きで、犬種不明ジロー秋田犬十郎紀州犬太狼猫のみい、猫のロンたちが大切な家族の一員であった。

晩年
平成元年3月23日(住民登録上)川崎市麻生区高石4−14−1キャッスル百合丘に転居。平成10年4月6日湯河原ゆうゆうの里に転居

平成19年8月19日午前3時37分、谷田昌平、老衰のためゆうゆうの里で死去。
平成24年1月29日午前10時35分、牟礼慶子、脳梗塞のため熱海所記念病院で死去。
菩提寺は、徳島県圓福寺、富士霊園文学者の墓。